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きょうだい児だった私が今まで歩んできた道   Since 2010
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wish.yotsumeyui.com/Entry/78/

↑の続きのエピソード

補導員に捕まりそうになった私は
その後矯正歯科にかかったときは
直接家に帰らず、クリニック近くの親戚の家に泊まり
日曜の午前中に帰宅することになった。

親戚の家は自営業で忙しく
子ども心に迷惑なんだなということはなんとなくわかったが
私には自分の意見を言う権利などなかったので
仕方なく泊めてもらっていた。

その日はなんとなく体調がすぐれなかったのだが
診療の予定が入っていたので出かけて行った。
夕方になり親戚の家に着く頃にはフラフラだった。

そしてその夜は、いつもは忙しい伯父がなぜか外食に
連れて行ってくれた。
と言っても、とうていご飯が食べられる状況ではなく、
伯父伯母従姉妹達が食事をしている間、
私はトイレで激しい下痢と嘔吐と闘っていた。

伯父はそんな私に対して気分を害したようだった。

日曜の朝、伯母が休日診療所に連れて行ってくれた。
熱を計ったら少し高い熱があったと思う。
注射を打って薬をもらったあと、伯母は最寄りの駅まで
私を送ってくれた。
「家までは送って行かれないから。一人で電車乗って帰ってね。」
と言われた。

全く記憶にないが、電車を乗り継いでなんとか帰宅できたのだろう。

家で寝ていると仕事から帰った父が驚いていた。

「(伯父か伯母が)会社に電話してくれたら俺が迎えに行ってやったのに・・・」

親戚と両親の間でどんなやりとりがあったのかは知らないが
私の矯正歯科への通院はこの時を限りに終わりになった。




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どういういきさつがあってそうなったのか全く記憶にないが、
あるとき私は矯正歯科に通うことになった。

私は歯並びなどどうでもよかった。
母と一緒に電車に乗って出かけられたことが嬉しかった。

しかし、母が一緒に行ってくれたのは最初の一度だけであった。
電車を乗り継いで2時間近くかけて行く場所だったが、2回目の
通院からは一人で行くように言われたのだ。

確か小学校4年か5年の頃だったと思う。

土曜日学校が終わるとすぐに電車に乗って出かけ
帰りは夜8時頃だった。

最初は不安だったが、すぐに一人で電車に揺られている時間が
好きになった。
乗り継ぎの電車を待っている間に駅ビルの地下で美味しそうな
お惣菜を見てまわったり、時々アイスクリームを買ったりするのが
楽しみだった。

その日も乗り継ぎの待ち時間に駅ビルの地下をぷらぷら歩いていた。

突然、誰かが私の肩を抱き、ぐっと引き寄せた。
中年の女性だった。
歩きながら
「一人なの?家はどこ?」
と聞いてきた。

なぜか私は誘拐されると思った。

「お母さんが向こうで待っています。」

と言って女性の腕から逃れて走った。
改札を通って電車に乗り込んだ。
助かった、と思った。

家に帰って母親に話すと

「あんた、補導員に捕まりそうになったのね。」

と言った。

*       *       *

今は学習塾などがあり、夜遅く出かけている小学生って
この辺でも珍しくないのだろうが、あの頃は夜8時過ぎに
駅ビルの地下でお惣菜を見てまわっている痩せぎすの
小学生がいたらそりゃ補導員さん、声掛けるわなぁと思う。


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時々スーパー等で「買って買って」と
床にひっくり返って駄々をこねているお子さんを見かけるが
下弟の駄々(正確に言うと駄々ではないのだが)は
あんななまやさしいものではなかったなぁと思いだす。

小さい頃の彼は順番が待てなかった。
レジに並ぶということができなかったのだ。

私は頻繁におつかいに行かされていた。
下弟も連れて、だ。

近所のスーパーに行って母から言いつけられた食材と下弟が欲しがる
おやつを買うのだが、まずスーパーにたどり着くまでがひと苦労。
中で食材を買うのにまたひと苦労、そしてレジ・・・。
時々同級生やその家族に会うこともあった。
たいがい見ちゃいけないものを見たという顔をされた。

私はおつかいに行くのが大嫌いだった。

ある時、特売の醤油を買ってくるように言われた。

それは土曜日の午後で、スーパー内にある書店や文房具の店に
同級生の子らが集っている時間帯である。
私はどうしても行きたくなかった。
スーパーに行かず近所の雑貨店に行った。
当然、特売の醤油はなくお金が足りず買えなかった。
雑貨店の奥さんにお願いだから自分が持っている金額で売って欲しいと頼んで、
困った顔をされたことを良く覚えている。

手ぶらで家に帰った私は当然母から激しく叱責された。

一方で

母は下弟だけを連れて知人がやっている近所の喫茶店に通っていた。
彼が順番を待つトレーニングの為だと言っていた。

先に店内にいた人に食べ物が運ばれて行くのを見て
下弟は泣くのだそうだ。
それでも何回か通っているうちに順番が待てるようになったと
母が嬉しそうに話していたのを思い出す。

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私が初めてプラネタリウムを観たのは小学4年の夏だった。

下の弟は小さかったはずなので、父と上の弟と3人で遠出して
科学館に行ったんだろうと思う。

そこのプラネタリウムはまず最初に学芸員さんがポインターを使って
東西南北の方角の説明をしてくれた。
プログラムが始まると空いっぱいの夕焼け、そして1番星、2番星と
星が出てきてあっという間に満天の星空に。
星座の説明やそれにまつわるお話、惑星や恒星の話など
学芸員さんがとても楽しくわかりやすく話してくれた。
最後は時間を早送りし、東の空が少しづつ明るくなり
朝が来て終了。

私は本当に感激した。
楽しかった~、プラネタリウムまた行きたいな、また見たいなと
両親に話した。

それからしばらくして、私の住むエリアにもプラネタリウムができた。
前に観たプラネタリウムが楽しかった私は見に行こうと家族に提案した。

弟が音や光に敏感なのは知っていた筈なのだが急に暗くなったり、
大きな音が出るわけではないと両親は判断したのかもしれない。

皆で席に着き、ワクワクしていると
突然ぱっと電気が消えて真っ暗になった。

「ぎゃあぁぁぁぁぁぁ~~~~~っ!!!」

闇をつんざくような叫び声をあげたのは弟だった。

母は彼を抱えて暗闇の中をあわてて外へ出て行った。

録音された音声のプラネタリウムが始まったが
しばらく外で泣き叫ぶ弟の声が重なって聞こえていた・・・。

「可愛そうなことしちゃったね。」

プラネタリウムが終わり外へ出た私に母が言った。

胸の痛い休日になってしまった。






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金曜日の午後から、日本が大変なことになってしまった。

東北地方太平洋沖地震

私の住む地域は震度3程度で大きな被害はでていないのだが
TVで映し出される映像を見て胸を痛めている。

このブログにちょくちょくコメントをくださるアリッサムさんが
被災地にお住まいとのことで、とても心配だ。

関東東北地方の方々に心よりお見舞い申し上げます。

*        *         *

自閉症の弟は「鉄ちゃん」で
時刻表を読んで、休日は電車に乗り出かけることが多い。

今回地震が金曜日の午後で彼は仕事に行っていたが
これが一日ずれて土曜日の午後に地震が起こり
彼が電車に乗って遠方に出かけていたら・・・
一体どうなっていたんだろう?

自閉症の人は予定の変更や周りの状況の予測外の
変化に対してとても強い不安を感じ、しばしばパニック状態に
陥る。もし彼が一人で今回のような災害に遭遇したら・・・。

ずっとずっと前の話だが、休日に新幹線を使って遠出していた弟が
帰りの列車が運休になり、足止めをくってしまったことがあった。

弟は携帯から実家に電話をかけて来た。
自分は駅にいて、電車が止まって家に帰れないとパニック寸前の状態だったらしい。
とにかく、落ち着いて待っているように言い聞かせ、父が自家用車で
300km程離れたその場所まで弟を迎えに行ったのだ。

その時は、災害ではなかったので
高速道路も普通に通れて事なきを得たようだが。

どこまでも車で行かれる父はもういないし
こういったハプニングに対して危機意識は持っているのか?

母は
「四六時中見張っているわけにはいかないでしょ。」
と驚くほど楽観的だ。

私は嫁に出た「他人」の立場なので
何も意見などできないのだが。



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先日、中国から上野動物園にパンダがやって来たと
ニュースになっていた。
昭和の頃、日中の国交が回復したときにも上野動物園にパンダが
やって来て大騒ぎになっていたっけ。

写真が残っている。
上野動物園にランランとカンカンを見に行った時のものだ。

父が撮ったと思われるその写真、兄弟三人でガラス張りのパンダ舎を
覗き込んでいる。
背伸びをして手すりにつかまり、顔を出して向こう側を覗き込んでいる上の弟。
私はまだ赤ちゃんの下の弟を顔の横まで持ち上げてだっこして見ている。

幸せそうな写真だ。

写真の中で私が着ているワンピースは、ピアノの発表会用に母が作ってくれたものだ。
小学生の頃、毎年ピアノの発表会に出ていて、その度に母が服を作ってくれていた。
あのワンピースは、私がチラシの裏に色鉛筆で描いたデザイン画をそのまま
再現してくれたものだ。嬉しくて、お出かけする時にはいつも着ていたっけ。

いつから狂ってしまったんだろう?

何がいけなかったんだろう?

誰も悪くない、悪くないのに。

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今日はバレンタインデー。
チョコレートを贈る風習は私が小学生の頃に広まった気がする。
今みたいに皆で贈りあうものではなく
おませな女子がイケてる男子に渡すものだったかな。

*         *         *

下弟が保育園の頃、毎年バレンタインデーには
たくさんのチョコをもらっていた。
保育園だから勿論母親を通じてもらうのだが
園バックに可愛いチョコレートとカードや折り紙などを
いっぱい詰めて帰って来ていたっけ。
彼はとてもハンサムボーイだったから、モテたのだ。

小学校に上がった年、私が家で留守番をしていると
下弟と同級生の女の子が家に来た。
私が玄関に出ていくと
「これ、下弟君に渡してください。」
と可愛いプレゼントを渡された。
「ありがとうね、渡しておくね。」
と言うと、嬉しそうにはにかんで帰って行った。
3人位の女の子が訪ねて来たと思う。

*         *          *

学年が上がるにつれ彼はどんどん他の子らと
離れたところに行ってしまったのだろう、
同級生の女の子にチョコレートをもらうことはなくなった。

今思うと
3歳から7歳くらいまでが彼のモテ期だったんだなぁ。

 

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