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父が病院で臨終を迎え、自宅に戻った時の事。
臨終に立ち会ったのは母と私の二人。
母は弟達を病院に来させなかった。
母は父と一緒に葬儀社の車で自宅に戻り
私は自分の車を運転して実家に向かった。
実家に着くと、父と母は既に到着していて
近所に住んでいる人や親戚も何人か来ていた。
下弟は父の枕元に座り
「おとうさんは亡くなりました。死んでしまいました。」
と言っておいおい大声で泣いていた。
そんな下弟の様子を見て
「下弟君、悲しいのね。」
と涙を浮かべる親戚の人もいた。
しばらくしてご近所や親戚の人達が帰ると
下弟はケロッとして
「コンビニに買い物行ってきます♪」
と言って出かけてしまった。
あの大泣きは外部の人に対する単なるアピールだったのか?
それともその時は本当に悲しかったけどすぐに忘れてしまったのか?
母曰く
「家族が亡くなったら悲しんで泣くもんだって思ってるんじゃないの。
本当に悲しいかどうかは別として。」
その時はバタバタしていたのであまり気にもしていなかったが
時が経った今、思いだすとなんとも言えない気持ちになる。
15年ぶりに同窓会に行ってきた。
夫の転勤でしばらく地元を離れていたので
本当に久しぶりの同窓会だった。
ただ、地元に戻ってから
誰とも連絡を取っていなかったので
ちょっとドキドキしながらの出席だった。
皆私の事を
「変わってないねぇ。」と言った。
クラスメートの一人は
「いつも明るいMurphyちゃんが、私は羨ましかったのよ。」と
言った。
担任の先生も
「Murphyの明るさにいつも救われてたんだよ。」
と言った。
私って、そんなに明るかったのね♪
何も考えてなかったもんなぁ。あの頃はまだ。
いろんなこと、考え始めると暗くなっちゃうから
無意識に心を守る為に
学校では明るく振舞っていたのかもしれない。
家は大変だったけど、このクラスで過ごした日々は
楽しかったよ。
父は私が地元に戻って程なくして逝ってしまった。
がんだった。
入院した時点で末期だったので
たった数ヶ月のことだった。
私は毎日、仕事帰りに父の顔を見に
病院に寄っていた。
とりとめもないおしゃべりをしていたのだが
その日は父がぽつりと言った。
「お前はかわいそうだった。
いろいろと辛い思いをさせて。
お父さんもなんとかしてやりたいとは
思っていたんだが、うまくいかなかった。
本当に悪かったなぁ。」
父がそんな風に言うのは初めてだったので私は驚いた。
「やだなぁ、お父さん。まぁ確かに大変な思いはしたけど
お父さんはいつも私の味方でいてくれたし
悪かっただなんて、言わないでよ~。」と返したら
「そうか・・・。」と父は呟いていた。
それからしばらくして、父は旅立っていった。
それから何年も経つが、
「悪かったなぁ・・・」という父の声を思い出す。
思い出すたびに涙が出そうになる。
友人の一人が小学校の教員をしている。
彼女とは長い付き合いで、下弟の事も知っている。
夫の転勤で地元に戻った頃、彼女から
支援学級の補助教員をしないかとの申し出があった。
彼女の勤務先の支援学級に自閉症の子ども達がおり
補助教員を探しているということで
教員の資格を持っている私に声をかけてくれたのだ。
「Murphyから保護者の方に、
こども達が大人になってからの事を
いろいろ話してもらえたら、少しでも
安心してもらえるかなって思うの。」
と、彼女は言った。
私は
「安心するような話は何もできないと思う。
実家の母、60過ぎても未だに菓子折り持って
頭下げに行くこともあるんだよ。せっかく声かけて
もらったんだけど、支援学級の補助教員はとても無理だわ。」
と、即座に断らせてもらった。
友人は驚いていたかもしれない。
自分は以前から、ただの一度も下弟に関するネガティブな言動を
一切したことがなかったから。
↑の私の発言に失望したかもしれない。
母も私も世間では元気で朗らかなので、
一生懸命障害のある家族を守っている、
TVドラマで見る通りの人に見られてるのかな。
大人になってからはああいったドラマは見ていないけど
(もやもやすることがわかっているので見られない)
現実はTVドラマのようなわけにはいかないよ・・・。
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