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きょうだい児だった私が今まで歩んできた道   Since 2010
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下弟が保育園児から小学校低学年の頃、たくさん絵を描いていた時期があった。

彼は”光沢と厚みのある紙”に”油性ボールペン”で書く事を好んだようで
私の教科書やノート、地図帳、資料集の裏表紙が、彼のキャンバスとして
ことごとく餌食にされていた。

彼の描く絵はバスや電車、そして自動販売機と決まっていた。
四角いものが好きだったんだろうか。
自販機は正面から見たものばかりだったが、バスや電車は
デザイン画のように、側面から見た図、正面、背面から見た図が
きっちりと描かれていた。
かなり細かい部分まで描かれており、
「よく見てるなぁ。」と感心するくらいだった。
覚えているのが、実家の近くを走っていた路線バスの絵。
オカモトのゴム製品の広告があって。
人差し指と親指で作った輪っかのマーク、その下にアルファベットで
SKINLESSとちゃんと書いてあったのだ。

思わずぶっと噴き出してしまった。

母は
「この子は絵の才能がある。天才かも。」
と喜んでいた。

でも本音を言うと、母には、人の持ち物には
勝手に油性ボールペンで絵を描いてはいけないって
ちゃんと教えて欲しかった。

拍手[7回]

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私が中学生になって間もない頃

父が勤務先で体調を崩し、そのまましばらく入院したことがあった。
会社から連絡を受けた母は、すぐに病院へ向かった。

私は弟達と家で留守番。母からの連絡を待っていた。

半日ほど経って母から電話があり、すぐにこっちに来なさいと
言われた。

父の入院している病院は家から遠かった。
電車とバスを乗り継いで2時間弱のところだった。

なんとか支度して、私は弟達を連れて病院へ向かった。

下弟は電車が大好きだ。
駅に着くとハイテンションで大声を出しながら飛び跳ねていた。

彼はホームに電車が入って来ると、電車に向かってダッシュ!
行き先の違う電車に乗り込もうとしてダッシュ!
危険極まりないのでこちらも必死だ。
首根っこをつかんで阻止すると、ギャーッと叫んでのたうちまわる。

周りの人達の冷たい視線。白い目。

そんなのは慣れっこだ。
とにかく電車にぶつかったりホームに落ちないよう
捕まえておくのに必死だった。

その時上弟がどこでどうしていたのか全く記憶にない。
あの子だって当時小学校低学年。まだまだ保護のいる年だったのに。

病院に着いた時はフラフラだった。
なんとか生きたまま連れて来られたよ、と思った。

※            ※            ※

最近母に聞いたところによると、
母は下弟を連れて電車に飛び込んでしまおうかと考えていた
時期があったらしい。

こんなこと考えたくないが
下弟がこの時電車に飛び込んで死んでいたら・・・。

その後の苦労がなかったにしろ、
私自身は一生重い十字架を背負う事になっていただろうな。
やっぱり生きたまま連れて行くことができてよかったんだ。

 

拍手[4回]

時々スーパー等で「買って買って」と
床にひっくり返って駄々をこねているお子さんを見かけるが
下弟の駄々(正確に言うと駄々ではないのだが)は
あんななまやさしいものではなかったなぁと思いだす。

小さい頃の彼は順番が待てなかった。
レジに並ぶということができなかったのだ。

私は頻繁におつかいに行かされていた。
下弟も連れて、だ。

近所のスーパーに行って母から言いつけられた食材と下弟が欲しがる
おやつを買うのだが、まずスーパーにたどり着くまでがひと苦労。
中で食材を買うのにまたひと苦労、そしてレジ・・・。
時々同級生やその家族に会うこともあった。
たいがい見ちゃいけないものを見たという顔をされた。

私はおつかいに行くのが大嫌いだった。

ある時、特売の醤油を買ってくるように言われた。

それは土曜日の午後で、スーパー内にある書店や文房具の店に
同級生の子らが集っている時間帯である。
私はどうしても行きたくなかった。
スーパーに行かず近所の雑貨店に行った。
当然、特売の醤油はなくお金が足りず買えなかった。
雑貨店の奥さんにお願いだから自分が持っている金額で売って欲しいと頼んで、
困った顔をされたことを良く覚えている。

手ぶらで家に帰った私は当然母から激しく叱責された。

一方で

母は下弟だけを連れて知人がやっている近所の喫茶店に通っていた。
彼が順番を待つトレーニングの為だと言っていた。

先に店内にいた人に食べ物が運ばれて行くのを見て
下弟は泣くのだそうだ。
それでも何回か通っているうちに順番が待てるようになったと
母が嬉しそうに話していたのを思い出す。

拍手[4回]

今日はバレンタインデー。
チョコレートを贈る風習は私が小学生の頃に広まった気がする。
今みたいに皆で贈りあうものではなく
おませな女子がイケてる男子に渡すものだったかな。

*         *         *

下弟が保育園の頃、毎年バレンタインデーには
たくさんのチョコをもらっていた。
保育園だから勿論母親を通じてもらうのだが
園バックに可愛いチョコレートとカードや折り紙などを
いっぱい詰めて帰って来ていたっけ。
彼はとてもハンサムボーイだったから、モテたのだ。

小学校に上がった年、私が家で留守番をしていると
下弟と同級生の女の子が家に来た。
私が玄関に出ていくと
「これ、下弟君に渡してください。」
と可愛いプレゼントを渡された。
「ありがとうね、渡しておくね。」
と言うと、嬉しそうにはにかんで帰って行った。
3人位の女の子が訪ねて来たと思う。

*         *          *

学年が上がるにつれ彼はどんどん他の子らと
離れたところに行ってしまったのだろう、
同級生の女の子にチョコレートをもらうことはなくなった。

今思うと
3歳から7歳くらいまでが彼のモテ期だったんだなぁ。

 

拍手[3回]

第一子にとって、きょうだいが生まれると、
それまでひとり占めにしていた親の愛情が分散して
何かしら寂しい思いをするものである。

夫が子どもの頃の話をしてくれた時もそう感じたし
自分の子どもを見てもそう思った。

仕方がないことなのだが
我慢ならないことだってある。

私が強く感じていたのは下弟の事よりも
母の上弟と自分に対する扱いがあまりに違うということだった。
それは兄弟が出来て愛情が分散するというようなものではなかった。
あきらかに差をつけられていたのである。

中学の頃、母に抗議したことがあった。
あの頃の私は、まだまだ家で言いたい事を言っていたのだ。

母の答えはこうだ。

「あんたはどうせ、嫁にやる子だから。
上弟君はうちの大事な長男だもの。
大事にされてあたりまえなの!」

もしかしたら母も祖母から同じ事を言われたのかもしれない。

しかし、「どうせ嫁にやる子」という言葉は
中学生の私に納得できる理由ではなかった。

「どうせ嫁にやる子」を
母は私に言うだけでなく、他の人間にも言っていたに違いない。

母は、進路を決める三者面談の席で
担任の教師に

「本当はこの子は高校進学しなくてもいいと思っているんです。
どうせ嫁にやる子に義務でもない教育を
受けさせたくないですから
!」

と言ったのだ。

担任の教師から
「まぁまぁ、お母さん、いくら女の子でも今どき
高校くらい出ていないと。」
とやんわり窘められ、私は救われたのだ。

結婚後に、母にこの事を話したことがあったが
彼女は全く覚えていなかった。

母もまた、私に対して、あんたがあの時ああ言ったこう言ったと
いろいろ言ってきたが、私自身そんなこと言ったかなと
全く記憶にないので

お互い様なんだろうか。





拍手[4回]

あれは私が中学生の頃のこと。

母方の従姉妹が結婚することになった。

長姉の娘である従姉妹は10歳年が離れていた。

他のいとこ達は一番上が私ともう一人のいとこ、
上弟と同じ年の子が2人、下弟と同じ年の子がひとり。
皆同世代だった。
そこそこ仲良くしていたと思う。
会うのは盆と正月だけではあったが。

お盆に母の実家で親戚が集まった時
従姉妹の結婚披露宴の8ミリ上映会をやることになった。

部屋の電気を消し、ふすまをスクリーンにして
上映が始まった。

それを見て、私は初めて気がついた。

結婚披露宴にはうち以外のいとこ達が
全員招待されていたのだ。

つまり、うちだけ母一人が出席し
ほかの親戚は家族全員が出席していたのである。

どういう経過でそういうことになったのかは知らない。
母は何も話さなかったし、父も何も言わなかった。

どうしてうちだけ母一人出席だったのか、
あとで聞く事もなかった。
聞いたって何の意味もないし。

楽しそうに8ミリを見ている親戚の中で
なんとも居心地が悪くなり
早く家に帰りたいと思ったことを
覚えている。



拍手[5回]

夏休みが終わるなぁと実感する24時間テレビ。
あれが始まった頃の話。

母から小さい子を6人ほど半日家で預かるように言われた。
6人って多くない?私一人で大丈夫なのか?と思ったが母は
「健常児の兄弟の子だから大丈夫よ♪」と言う。
嫌だとも言えず、承諾した。

当日、母の仲間らしいお母さん方がたくさんやって来て
「よろしくお願いしますね。」と言って
子どもたちを置いてどこかへ出かけて行った。
私は何も聞かされていなかったが、障害児関連で
24時間テレビのイベントに参加していたのかもしれない。

小学校低学年位の子から一番小さい子は
よちよち歩きの赤ちゃんだった。

皆それぞれ本やお絵かき帳、おやつなどを持参して来て
びっくりするほど大人しく、
騒いだり喧嘩したりすることもなく過ごしていた。
私に対して本を読んでとか遊ぼうとかお腹すいたとか
言ってきた子はひとりもいなかった。
よちよち歩きの赤ちゃんでさえ、ニコニコしてずっと
私の膝に入って大人しくしていた。
私は赤ちゃんを膝に抱き、ぼんやりと手塚治虫のアニメを見ていた。

やがて夕方になり、お母さん方が迎えに来て
「ありがとうね。」とお礼を言って帰って行った。

ほっとしたと同時になんだかわからない違和感を覚えた。

今になって思えば、みんな「きょうだい児」だったんだ。
障害のある兄弟とずっと一緒にいて、無意識のうちに
小さいうちから他人に頼らず生きていく術を
身につけていたのかもしれない。

あの子らも30代になっているはずだ。
今頃どうしているのかしら。




 

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