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きょうだい児だった私が今まで歩んできた道   Since 2010
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30年以上前のことなので記憶が曖昧ではあるが。

高校生になってすぐの頃
私は母と下弟が参加している
知的障害の子ども達と遊ぶサークルの一員として
活動することになった。

近辺のいくつかの大学が合同で作ったサークルで
日曜日に地域の知的障害のある子供たちと遊ぶのだ。

親達は別行動で会合などをしていたらしい。

メンバーは各々担当の子どもを決められて
その子供をしっかりと見ている決まりであった。

私には弟と同じくらいの年の自閉症の男の子を
担当として任された。

多動でパニック起こしまくりの子どもを一日見ていると
夕方にはヘトヘトになった。

母は子どもと離れ別行動しているのに
どうして私はずっと自閉症の子どもの面倒を見て
いるんだろう?と疑問に感じ始めた頃
私は担当の子どもの脱走を許してしまったのだ。
メンバーみんなで必死に学内学外探し回って
幸い無事に見つかったのだが

次の週から私の担当は自分の弟になった。

大学生のお兄さんお姉さん達は
月曜日から土曜日までは普通に生活して
日曜日だけこういった子供たちと遊ぶだけだけど

私は自分が高校で授業を受けている時間以外
ずっと関わらなければいけないのだ。

疲れた。もう嫌だ。

母に日曜日は家事を全部やるから留守番させて
欲しいと頼んでみた。
意外なことに母はあっさりそうすれば?と言った。

*           *           *

今になって思うが、そのサークルには
母が無理言って入れてもらっていたのかもしれない。
大学生のメンバーの方々も本当は迷惑だったのかも。
参加していた大学生の誰ひとり顔も名前も覚えていないので
どんな風に私のことを見ていたのかさっぱりわからないが。

サークル名で検索してみたら今も活動しているようだ。
今はきょうだいに対するフォローが行われているのだろうか。

拍手[4回]

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今年も受験シーズンがやって来た。

以前自分が受験生だった頃の事を書いた。
つくづく思うが、私にとって大学受験は
人生の大きな分岐点だったと思う。

母は私に福祉の勉強をするのなら大学に行かせてやると
言っていた。幸か不幸か県内に福祉大学があったため
そこへ進学して福祉系の職業に就き下弟の面倒を見ろ
というのが母の希望だった。

しかし私は従わなかった。
当時共通一次試験と呼ばれていた今でいうセンター試験を
受け、目指していた国立大学を受験することにしたのだ。

母は激昂した。
そして私に言った。

何のために今まであんたの面倒を見てやったと思っているの?
弟の面倒を見ないのならあんたなんか存在する価値がない!
勝手にしたらいい!
うちにはあんたの為に使うお金は一銭もないからね!

私は深く傷ついた。

しかし

今になって思えば
母が私に暴言を吐いてくれたおかげで
私は障害者のきょうだいを守らなければ
家族を守らなければという呪縛から解放されたのだ。

私はいなくてもいい存在だ。
家族にとって私はいなくてもいい存在なんだ。

優しい言葉で真綿で首を絞めるような事を
されるよりよほど良かったのではないかと思う。

拍手[18回]

受験の季節になると思い出す。

私に対する母の言動。

高校受験の時。

併願で受験した私立校は合格発表から1週間以内に
入学金の前金(2万円程)を入金することになっていた。
残りは公立高校の合格発表の2日後までに入金すればよかった。

私立の合格が決まったと報告した時、母は

「前金など払わないからね!
金をどぶに捨てるようなものだから!」

と言った。そして、

「公立落ちたらあんたは中卒だよ!」

と言って笑った。

公立高校に合格した時は忌々しげにこう言った。


「うちにはあんたの為に使うお金なんかないんだけどね!」


大学受験の時。

「あんたなんかが行けるわけがない!」

「きっと落ちるよ。」

「(目指している学科を)向いてないし、能力もないのに!」

「もうやめたら?」

必死で勉強している私に向かって、毎日呪いのように言い続けていた。

第一希望校に合格した私に


「金なんか一銭も出さないからね!」

と言い放った。

*              *              *

上の子が受験の時、こんなことがあったと思い出して
(不思議なことにすっかり忘れていたのだ。私は。)
愕然とした。

どうしたらそんなことが言えるのか。

母は


そんなに私が憎かったのか。

憎んでいないとしてもなぜ、こんな酷い事が言えたのか。

そうまで言わせるほど、当時の母は心を病んでいたのだろうか。








 

拍手[10回]

発言小町「高校生でカツラ」というトピックを読んで思い出した事。

高校生になってしばらくした頃
左側頭部に10円玉くらいのハゲができていることに気付いた。
厳密に言うとハゲではなく、10円玉位のスペースの毛が
長さ1ミリ程になってしまっていた。

学校の帰りに皮膚科に寄ると
これは円形脱毛症ではないだろうと言われた。
先生はペットからの感染症を疑っていたようだが
その時家ではペットを飼っていなかった。
先生は不思議がっていたが、感染症であっても
状態はもう治りかけであるので心配はいらないということであった。
そうか、ならば放っておこうと思った。

ある日、クラスメートに指摘されて気付いた。
授業中私はずっと頭を掻いたり髪の毛を毟ったりしてていたようだ。
それで髪の毛が切れたり折れたり抜けたりして10円ハゲ状態に
なっていたのか。

どうしようかなと考えて、毛を毟らないように髪の毛を常に
ひっつめて縛っておくことにした。
そのおかげか、ハゲが10円玉より大きく広がることはなかった。

社会人になる頃には消失していた。

親には話していない。
話したところで怒られるだけってわかっていたから。
アンタのために余計な手間はかけられないと
叱責されるだけだ。

発言小町のトピック主さんの家庭環境はわからないが
私の場合は髪の毛をめくってみないとわからないほどの
ものであったから、親も気づかなかったのだろうが
すれ違う人に見られるほどのものを親は気付いていないのか?

親御さんに相談をというアドバイスが多いのはもっともだとは思うが

言えないって思うトピック主さんの気持ち、わかる。

拍手[3回]

毎日のぞいている掲示板で見た、ある人のHNを見て
ふっと思い出した事を書いてみようと思う。
そのHNはある食べ物の名前。

私が高校生の頃、授業中にノートを回して
リレー小説を書く事が流行っていた。
ひとり1文か2文ずつ話を書いて近くの席に
回していき、授業が終了するときに完結させるのだ。
男女関係なくノートが回って来て、書きたい人が書き
参加しない人はそのまま次の人に回していくという
ちょっとしたクラスの娯楽。
ネタはその授業の先生だったり、TV番組だったり
内容は軽いもので、休み時間に皆で書きあがったものを
読んで笑うというものであった。

ある日私のところにノートが一冊回ってきた。
いつものリレー小説かと思い、読んでみると
なんだか変だ。

それはどうやらクラスのある女子の交換日記だったようだ。
クラスメートの悪口ばかりが書き連ねてあった。
気がつかずにリレー小説だと思って読んでしまったのは
登場人物が全て食べ物の名前で書かれていたからだ。

しかも、悪いことにそこに書かれていた悪口は
一緒に弁当を食べていた仲間達。
書いていたのもその中の2人。
内容から誰が書いているかも一瞬にして
分かってしまった。
その日の朝、私がその二人と話したことが
書かれていたからだ。

私のことも食べ物の名前(みかん:仮名)で表現されていた。

”今朝、学校に着いたらさぁ、みかんが話しかけてきたでしょ?
OOな事言ってさ~、話し方が気持ち悪いよね、大っ嫌い、
話しかけないで欲しいよ~。”
”そうそう!私もみかん大嫌い~!!!”

OOな事(話の内容)は私からすれば、
「いいお天気ですね。」程度の挨拶だった。
ニコニコして話しておきながら、心の中では
こんな風に思っていたんだ・・・。

私は黙ってノートをパタンと閉じ、
隣の男子に回した。

彼女らの席のちょうど真ん中辺りに
私の席があったのだ。
私を飛ばしてノートを渡すつもりが、
リレー小説だと思って中を見ずに回されたのが
運悪く私の席に来てしまったのだ。

顔は見ていないが彼女らは青ざめていたのかもしれない。
しかし、こんな危険な内容のノート、授業中に人を介して回すか?

なんて浅はかなんだろう。
暇なのか、シアワセなのか・・・。

私は同じ高校にこんな低レベルな人達がいて
しかも、何も知らずに一緒に弁当食べて楽しく語らっていた事に
とても失望した。

他のメンバーに
あの子ら、アナタらのこと、こんな風に言ってるのよと
暴露してやろうかと思ったが、
そんなことしたら彼女らと同じ低レベルだなと思ってやめた。

その頃の私は家が嫌で嫌で、学校で友達と他愛ない話を
することが小さな幸せだったのだ。
その幸せを自分の言動で壊したくなかったのだ。

あのノートは見なかったことにした。

素知らぬ顔で学年末まで毎日、一緒に弁当を食べ続けた。

悪口ペアに対しては、私から話しかけることはしなかったけど。





拍手[9回]

家庭科の授業で自身のライフプランシートを作成する課題があった。

ライフプランシートとは生命保険の勧誘時に見せられる
200X年に何歳で結婚、200X年第1子誕生とか書いてあるアレである。

いろいろ考えたが、当時の自分にはどうしても、
どうしても全く将来が見えなかった。

あの頃の私の家は、ほぼ壊れていた。

機能不全家族という言葉は後になって知ったのだが
まさに機能不全に陥っていた。

下弟は地元の小学校に通い
毎日のようにトラブルを起こして
母はその後始末に追われていた。
週末は療育や親の会に出かけ、母が家にいる時間は
とても少なかった。

父は仕事で忙しく、母に協力的ではなく
不機嫌という態度で母に対抗していた。

上弟は登下校時の下弟の世話、学校内で起こす
トラブルにも巻き込まれ、同級生からからかわれる日々、
それに対して対処しない親に不満を持っていただろう。
反抗期も始まり家族の誰とも口をきかなくなっていた。

私は、部活をやめさせられ、毎日家事をし、
母のストレス解消のサンドバックに
なっていた。

毎日一生懸命ご飯作っても
誰も美味しいとも言ってくれない。

誰もが口を開けば、文句や愚痴ばかり。

皆がいつも不機嫌。

こんな生活がずっと続くのかな・・・。

そう思っていた。

課題のライフプランシートだが
結局何も考えられず、

「19XX年高校卒業、19XX年、20歳 交通事故で死亡」

と書いて提出してしまった。

怖い先生だったので怒られるかと思ったが
何も言われなかった。

成績は普通だった。


結婚し、子どもまで持てる生活など予想できなかった。

あの頃の私に会えたら、肩をたたいて励ましてあげたい。

大丈夫だよ、幸せになれるんだよ・・・って。

拍手[3回]

私が通っていた高校はそこそこの進学校で
成績上位者は大方が旧帝大の国立大学に進学していた。
そんなこともあり、私も大学に進学することを考えていた。

進路を決めるにあたって、母が私に言ったのは

「福祉系の大学に行って、
一生下弟の面倒をみるのなら大学に行かせてやる。」
という言葉だった。

私は、某大学の障害児サークルに参加して
「これは私がやりたいことではない。」と確信していたので
福祉系の大学には行かないこと、学びたい分野があることを
伝えると

「金銭的な援助は一切できない。
あんたの為に使う金はない。」

と言われた。

これは脅しではないと思った。
なぜなら私は部活も辞めさせられていたし
(部活などしていたら帰宅が遅くなって夕飯の支度に
間に合わないし、授業料以外のお金など出さないから
辞めなさい!と言われ、泣く泣く辞めたのだ。)
とにかく自由に使えるお金や時間がとても少なかったからだ。

どうしたらいい?どうしたら・・・。
とにかくお金のかからない国公立大学、予備校通わずに受かるところ、
そして自分が学びたい学科があるところ・・・。

運よく見つけることができた私はラッキーだったんだろう。

受験料は出してもらえた。入学金は父方の祖母が出してくれた。

2ちゃんねるや発言小町でのスレッドを読むと
大人になったきょうだい児は福祉系の仕事をしている人が
多いように感じるが、私が言われたのと同様のことを
親から言われたんだろうか。

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