[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
成績上位者は大方が旧帝大の国立大学に進学していた。
そんなこともあり、私も大学に進学することを考えていた。
進路を決めるにあたって、母が私に言ったのは
「福祉系の大学に行って、
一生下弟の面倒をみるのなら大学に行かせてやる。」
という言葉だった。
私は、某大学の障害児サークルに参加して
「これは私がやりたいことではない。」と確信していたので
福祉系の大学には行かないこと、学びたい分野があることを
伝えると
「金銭的な援助は一切できない。
あんたの為に使う金はない。」
と言われた。
これは脅しではないと思った。
なぜなら私は部活も辞めさせられていたし
(部活などしていたら帰宅が遅くなって夕飯の支度に
間に合わないし、授業料以外のお金など出さないから
辞めなさい!と言われ、泣く泣く辞めたのだ。)
とにかく自由に使えるお金や時間がとても少なかったからだ。
どうしたらいい?どうしたら・・・。
とにかくお金のかからない国公立大学、予備校通わずに受かるところ、
そして自分が学びたい学科があるところ・・・。
運よく見つけることができた私はラッキーだったんだろう。
受験料は出してもらえた。入学金は父方の祖母が出してくれた。
2ちゃんねるや発言小町でのスレッドを読むと
大人になったきょうだい児は福祉系の仕事をしている人が
多いように感じるが、私が言われたのと同様のことを
親から言われたんだろうか。
父は私が地元に戻って程なくして逝ってしまった。
がんだった。
入院した時点で末期だったので
たった数ヶ月のことだった。
私は毎日、仕事帰りに父の顔を見に
病院に寄っていた。
とりとめもないおしゃべりをしていたのだが
その日は父がぽつりと言った。
「お前はかわいそうだった。
いろいろと辛い思いをさせて。
お父さんもなんとかしてやりたいとは
思っていたんだが、うまくいかなかった。
本当に悪かったなぁ。」
父がそんな風に言うのは初めてだったので私は驚いた。
「やだなぁ、お父さん。まぁ確かに大変な思いはしたけど
お父さんはいつも私の味方でいてくれたし
悪かっただなんて、言わないでよ~。」と返したら
「そうか・・・。」と父は呟いていた。
それからしばらくして、父は旅立っていった。
それから何年も経つが、
「悪かったなぁ・・・」という父の声を思い出す。
思い出すたびに涙が出そうになる。
高校生になった私は、母に命じられて
とあるサークルに参加することになった。
それは住んでいたエリアにあるいくつかの大学が
合同で作ったサークルで、休日に障害者の子ども達と
遊ぶというものだった。
母と下弟が以前から参加していたサークルである。
そこに来ていたあるきょうだい児の女の子、Aちゃん。
年子の兄(重度の身体障害だった)をそれは一生懸命介護していた。
たぶん当時の私と同じくらいの年だったと思う。
彼女にとって私はその他大勢のアウトオブ眼中だったようで
一度も言葉を交わした事はなかった。
母は何かにつけてAちゃんのことを褒め称え
それに比べてあんたはなんて暢気なのと言った。
母にそう言われても仕方ないと思っていた。
どうしてもAちゃんに自分の姿を重ねることなどできなかった。
母としては、そのサークルで私が下弟の面倒を見ることを学び、
サークルに参加している大学生の誰かと一緒になってくれればと
考えていたようだ。
(何十年も後になって、母から「本当はサークルに来ていた○○君と
結婚してほしかったのよ」と言われ、その事に気づいた。)
結局私は、どうにもなじめなくて数か月で行かなくなってしまったが。
(休みの日は家事をするということで母に許してもらった。)
自分の進む道について考えるいい機会になったと思っている。
中学の卒業式の日、家に帰ると母に呼ばれた。
わざわざ呼びつけて、一体何かなぁと思い母のところへ行くと
母はこう言った。
「今日で義務教育は終わり。
ってことは、親が面倒をみる義務は終わったってこと。
だからお母さんは今後一切、あなたの為に何もしないから。」
そして、この家で暮らしていく為には家事をすること、
家で働かなければ高校に通わせてもらう権利はないから
そのつもりでと言われた。
「卒業おめでとう」とは言ってもらえなかった。
そして、母が言った通り、高校の入学準備(制服の注文等)を
全部一人でこなした。もちろん、お金は渡してもらえたのだが、
「本当はあなたの為に使うお金なんて、うちには一銭もないんだからね!」
と言われた。
その後7年間、私が大学を卒業するまで
何かにつけて母に言われ続けた言葉である。
弟達が大事なのはわかるけど、
未だに悲しく思っている。
中学の頃、作文の宿題に下弟のことを書いたことがあった。
ネタとしては結構レアな内容だし、
あの頃の私はまだ、母に洗脳されていた状態で
「家族で支えあって乗り越えていこう」とある程度本気で
思っていたので、そういった内容で書いてみたら
教科担任の先生が全国単位の作文コンクールに出して。
驚いたことに入賞してしまった!
賞状と盾もらって家に帰ったら
母は苦々しげに
「女の子がこういうことできてもしょうがないんだよね。」と言った。
↑の一言が母の本音だったんだろう。
私は兄弟の為に働いて、兄弟の面倒をみる、
その為には作文など書けても意味がないということなのだ。
賞状も盾も嫁に出るときに持って出なかったら
(父は持ってけ!と言っていたのだが)
実家のリフォーム時に一緒にゴミになったようだ。
ま、それでいいんだけど。大人になって、
あの作文に書いたことは全部嘘っぱちだったってわかったから。
恥ずかしくてとても読み返すことなどできないだろう。
今でも人権作文コンクールなどで、障害者の兄弟について
書かれた作文が入賞してるのを見るにつけ
それを書いた子の生活状況を案ずる自分がいる。
ここに書かれている事はホントにこの子の気持ちなんだろうか・・・。
小さい頃の下弟はよくパニックを起こしていた。
パニック起こすと、姉の自分にそれを収めることは無理だった。
地面にひっくり返り、手で両耳を押さえて
「きぇ~」とか「ひぇ~」というような奇声をあげながら
のたうち回る。
実家のあたりは田舎で、昔から農作業をしている人達の
ためなのか、正午にサイレンを鳴らしていた。
下弟にはそれがとてつもない恐怖であったらしく
毎日正午になるとひどいパニックを起こしていた。
他にもいろいろな場面でパニック起こしていたっけ。
(あまりに数が多かったので、ひとつひとつのことを思い出せない)
私は(療育の一環だったのかどうかは知らないが)頻繁に
母から下弟を連れて近所の商店へ買い物に行くように
命じられ、たびたび彼を連れ歩いていたが
本当に大変だった。
学校が夏休みの間は保育園の送り迎えも頻繁にしていた。
普通に歩けば10分の距離だったんだが、
とてつもなく長い道程に感じられた。
車に跳ねられたりしなくてよかった・・・。
ヘルパーの仕事をしている友人から聞いた話だと
今はこういった障害を持つ子どもを散歩に連れていくサービスが
あるのだとか。
あの頃の私に、お散歩サービスの研修を受けさせてやりたい。
ホントに・・・。
中学生になっていた私はその本を読むように言われた。
それによると、自閉症はテレビの見すぎでなる病気、
テレビをやめたら症状が良くなったというような事が書いてあった。
そういう訳で
家のテレビは一切見てはいけないことになった。
処分してしまえばよいのに、テレビは居間に置いたままであった。
昼間弟が保育園に行っている間、父母がテレビを見たかったのかなぁと
今になって考える。
当時宇宙戦艦ヤマトが流行っていて、夕方再放送がやっていたのだが
当然見られない。ドラマもニュースも見られない。
インターネットなどない頃のこと、子どもにとってテレビは重要な情報源の
ひとつであったのだが。
”ヤマト”については夕方近所の家にお邪魔して見せてもらっていたっけ。
土曜日の夜、8時だよ全員集合も見に行っていたなぁ。
(親切なご近所さんには今も感謝してます。ホントにありがたかった)
しかし、当然なんだが、テレビ見せないだけで下弟の症状がよくなるわけはなく、
いつの間にかテレビ禁止令は解除されていた。
アマゾンで検索したら、なんとこの本、まだ売られているらしい!
驚いたことに、カスタマーレビューで☆5つ付けている人がいるし・・・。
☆1つの方が私の言いたい事言ってくださってるのでちょっとホッとした。
冗談じゃない!ホントその通りだと思う。
12 | 2025/01 | 02 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |